Durstのブログ

主な関心は、言葉、記号、旅など。頭に浮かんだことを、備忘録のように雑記します。

句読点の情報量

句読点には、思いのほか情報量が多いと思う。出だしの数行で読む気が失せるのは、自分が苦手な声色のようなものを感知して、心の耳をふさぎたくなるからではないか。使われている言葉の選択はもちろんのこと、句読点によって描かれる「文の風景」で印象はガラリと変わる。小説家なら好き嫌いで済まされるが、商用のコピーライティングでこの感覚に鈍感な書き手は救いようがない。

句読点の打ち方が、自分の打ち方に似ている作家の文章は読みやすい。読みやすいというよりも、自分の心にこだましやすいと言ったほうがいいのかもしれない。読んでいるうちに、その作家の言葉が、まるで自分が考えた言葉であるかのように錯覚を覚えて、身体的にハラオチさせられる。そのように感じる作家は、内田樹池澤夏樹松家仁之中沢新一など。いつも共感しながら読むが、意外に読書のスリルは少ないかもしれない。

翻訳家はいわば文章職人なので、好みがはっきりと分かれるところである。柴田元幸、岩本正恵、池田香代子木村榮一池内紀あたりはみんな達人だと思う。句読点の標準的な打ち方や、語尾の締め方などで悩んだときは、このあたりの翻訳家の文章を読みなおしてみる。翻訳は、職人的な作文の技術を鍛える最高のトレーニングだろう。

とはいえ、共感ではなく、刺激が欲しい時もある。息を止めて潜水するような切迫した長文を読んだり、マシンガンのような言葉の爆発にも触れてみたい。前記のような共感はないものの好きな文体といえば、村上龍川上弘美村上龍の文体には、「きたな!」「またまたそういうこと言って」などと突っ込みたくなる親しみがある。川上弘美が『真鶴』などで使っている句読点の打ち方には、「うわ」「やられた」と何度も叫んでしまった。武道の達人に投げ飛ばされたような、気持ちのいい敗北感だ。

句読点の情報は、呼吸のタイミングである。歩いたり、ジョギングしたり、全力疾走したりといった文章の鼓動が、句読点にはっきりと現れる。句読点の打ち方に正解はないが、自分が正しい腹式呼吸をしているかチェックするように、ひとつひとつの句読点が適切かどうか、いつも読み返して確かめている。