Durstのブログ

主な関心は、言葉、記号、旅など。頭に浮かんだことを、備忘録のように雑記します。

わかってるよ、うるせえな!

町中にある記号を見つけてスケッチし、その意味を説明せよ。小3の息子の国語の宿題である。担任の先生から直々に電話で協力の要請があったので、息子の希望通りに駅まで付き添う。さっそく道端で、「P」という文字さえ読めないのに「駐車場」という意味を理解していることに驚いた。

からっきし苦手なこともある。矢印の意味するところはわかるが、下向きの矢印なら「ここだよ」、上向きの矢印なら「真っ直ぐ進んだところにあるよ」といった具合に言語化できない。この言語化こそが国語の宿題としての本意なのだが、息子の顔色はみるみる曇っていく。

無理もない。そもそも記号はその面倒な言語化を飛び越えて抽象概念をつかむためのものなので、「上向きの矢印は、要するにどういう意味なんだよ」と問い詰められて、「うるせえな、意味はわかってるからそれでいいじゃん」と答える息子の気持ちはわかる。

生まれてすぐにiPadを使いはじめる子どもたちは、コンテキストを飛び越えて、いきなり抽象概念をぐいっとつかむ。イラスト風の直感的なデザインが必要なのは、経験でバイアスがかかかった大人たちのほうだ。そんな愚鈍な我々のトレーニングもひと通り終わったらしく、デバイス上の記号もより抽象度の高いフラットデザインに向かっている。

言語も記号だ。使えば使うほど個々の情報量が増えて、コンパクトな作りになっていく。歴史の長いフランス語や中国語が、近隣の他の言語よりも一語一語の情報量が多く、学習者が同音異義語に泣かされるのはそのせいだろう。

スマートフォン上で交わされる顔文字やスタンプにも、テキストでは表現しきれないハイコンテキストな意味がすでに内在されている。でもそれをよりローコンテキストな言語に引き戻す能力が、いわゆる言語能力だと考えて学校は宿題を出しているのだ(たぶん)。 いずれにせよ国語力や外国語能力を含めた言語能力とは、「そこにある概念をあれこれ言い換える能力」にほかならない。そしてすべての創造行為は、何物かの言い換え作業である。

こんなことを考えるきっかけをくれた国語の先生に、ありがとう。