Durstのブログ

主な関心は、言葉、記号、旅など。頭に浮かんだことを、備忘録のように雑記します。

らしさからの逃走

らしくあれ。昔から嫌いな言葉だった。子供らしく。学生らしく。若者らしく。男(女)らしく。我が社の社員らしく。日本人らしく。
そして、「自分らしさ」にもカチンとくる。当人がその言葉を口にするときは、たまたまうまくいっていた過去の自我像にこだわっていることが多いし、他人が「あなたらしくない」などと言うのは「以前のお前に戻れ」という非難がましい要求である。
だから「らしくあれ」と言ってくる大人(たいてい大人だ)には、いつも「うるせえ」と答えてきたし、これからもそうだろう。年をとったからといって、老人らしさを他人から求められるのはまっぴら御免だ。もちろん、善意から出た言葉であるのは承知している。でも心の底から迷惑なのだ。
らしさというのは、頭のなかで勝手に生成された「好ましい状態」のイメージである。そのイメージは、思い込みによって修正されているため、欠点を無視して美化されている場合がある。何より「多数派だから」や「長年そうやってきたから」を正しさの担保としているのがわかるとうんざりだ。

だから「らしさ」という言葉は、賞賛のとき以外に使わない。「らしさ」とは、その人のユニークかつ素晴らしいパフォーマンスを褒め称えて「そのまま行け!」と励ますためのものであって、自分の価値観を押し付けて他人を型にはめるためのものではない。考え方が近い人でも、「らしさ」を言い募る人には警戒する。その人は、他人が自由に振る舞ったり、ユニークな存在になろうとすることに対して不寛容な傾向がある。
ベストパフォーマーですら、既存の自分らしさから逃走することで、新しい力を獲得する可能性がある。だから、「らしさ」を語る評論家気取りの大人たちからは、とことん逃走しよう。