Durstのブログ

主な関心は、言葉、記号、旅など。頭に浮かんだことを、備忘録のように雑記します。

おとなの作文教室

英語の作文術を学ぶための定番本のひとつに、「REVISING PROSE」がある。日本語に訳せば「推敲術」ぐらいか。世の中の大人たちがこぞって書く「オフィシャル・スタイル」の悪文をメッタ斬りにし、読みやすい「プレーン・イングリッシュ」に推敲するコツをまとめた本だ。だらだら形式的なレトリックだらけで中身のない文章を、半分以下の文字数ですっきり書きなおし、「ざまあみろ」と叫んでいる。
この本に書かれているアドバイスは、日本語にもあてはまるものが多い。例えばこんな禁則。「What I really want to say is that…」みたいにもったいぶった前置きから書き出してはいけない。「つまり私が言いたいのは…」などと言う暇があったら、思うところをいきなり述べよ。まるで短気な江戸っ子である。しかしこんな江戸っ子気質の先生を心に住まわせておけば、自信の無さからついつい曖昧な表現に逃げ込もうとする自分を戒め、「よく考えてからズバリと書け」と叱咤することができる。単刀直入に書けないことは、自分の頭で考えていない証拠だ。いま書こうとしている文体が、まさにそれを教えてくれるのである。
大きな問題に対して、結論を逡巡するのは慎み深い知性の働きである。しかし開き直って抽象的な印象論や推測を長々と書き連ねるような評論は、それこそ「オフィシャル・スタイル」に堕する。衒学的な評論ほど退屈なものはない。ゴールに向かって精度の低いロングパスを放り込むだけの評論に出会うと、すぐに最後のページとあとがきだけ読みたくなる。ゲームを楽しむ意欲が失せ、1分のダイジェストで十分だと思ってしまうのだ。
一方、鍛えぬかれたプレーンな言葉で書かれたエッセイは、スリリングなフットボールに似ている。日本語の作品ですぐに思い浮かぶのは、小坂井敏晶の『責任という虚構』。この人の言葉は短く直線的なパスのようで、余計なドリブルをせず、着実に細かくつないでゲームを支配し、じわじわとゴールに迫る。芸術的なスルーパスや、3人抜きのドリブルができるスター選手はいない。それでもついにゲーム終盤で、読者の思考バイアスという強固なディフェンスを切り裂いて、「すべての責任は、あなたの思い込みでしたとさ!」という偉大な決勝点をゴールに叩きこむ。

文体は、思考をそのまま表す。だから「つづりかた教室」を馬鹿にしてはいけない。優れた文体を真似することで、誰でも自分の思考に好ましい負荷を与えることができるのだから。