Durstのブログ

主な関心は、言葉、記号、旅など。頭に浮かんだことを、備忘録のように雑記します。

勝利へのダイブ

サッカーでは、疑惑のPKで勝敗が決することが少なくない。ワールドカップやチャンピオンズリーグなど、一流の審判がジャッジしていてもそれは起こる。疑惑とは、ファウルを得るための意図的な転倒、つまりダイブのことだ。素晴らしい熱戦が、怪し気な演技とミスジャッジに水を差される。ゴールを決めて拳を振り上げるキッカー。不正な得点だと知りながら熱狂する観客たち。

こんなスポーツマンシップに反する、卑怯なプレーが許されていいのだろうか。相手チームはもちろん抗議するが、PKを与えられたチームは「それもまたフットボール」と議論を避ける。そしてダイブの常習者には、子供たちがが憧れる名選手もいる。ファンに嫌われ、非紳士的行為で処罰されるリスクを冒して、彼らが目先の利益に走るのはなぜだろう。

はっきりと言えることは、ダイブする選手が、ルールの執行者である審判を信頼していないということだ。不完全なシステムは、常に自分に対して不利に働く可能性をはらんでいる。不利益を被るようなミスジャッジを警戒するうち、あわよくば管理者を欺いて自己利益へ誘導するようになるのだろう。彼らはそうやって育ってきたのだ。

権威への不信がダイブを生む。卑劣な行為でも、完全に否定する気になれないのはそのためだ。ダイブの常習者は、おそらく私生活でも社会的権威に対する敬意が薄い。日本人選手に名ダイバーがいないのは、まだまだこの国のシステムがうまく機能している証拠ではないか。育った国の治安とダイバー気質に相関関係はあるのか。かつてダイバーが皆無だったドイツが、多くの名優を輩出しつつあるのはなぜか。

PK戦の廃止を目指しているUEFA会長のミシェル・プラティニが、ビデオ判定導入に消極的であることは興味深い。ビデオ判定を導入したら誤審は減るが、間違いなく審判の権威は失墜する。人間のゲームは、最後まで人間に委ねたい。失敗もゲームのうち。そんなヨーロッパ的な諦観と保守思想を感じる。

ダイブを見破られると警告の対象になるのに、微妙な転び方でアピールし続ける選手はどこか憎めない。しかしどんな審判が相手でも「オネスティー・イズ・ザ・ベスト・ポリシー」という言葉を信じたい。決してダイブをしない人間だと皆に信用される選手になれば、本当にファウルを受けたときに見逃されずに済むのだから。